嫌でも掃除が好きになる方法

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冒頭ですが白状します。
嫌でも「掃除」が好きになる方法、と題しました。
しかし、若者の言葉を借りれば、少々話を盛ってしまいました。

正確には、嫌でも「掃除機」が好きになる方法です。
お詫びして訂正します。

もっと言うと、「嫌でも」というのも盛ってしまっているような気がしてきた。
こうなったら、あの魔法のフレーズを繰り出すしかなさそうです。

効果には個人差があります。
ということで、どうぞお手柔らかに。

さて、掃除と掃除機、 字面だけ見ればほとんど違いはありません。
掃除機と言えば掃除、と言うのは誰もが皆頷ける真理だと思います。

しかし、掃除と言えば掃除機とは必ずしも言い切れないかもしれません。
それでも、やっぱり掃除機が基本と言うのは一理あるように思います。

なんて、ここまで大変回りくどい言い方をしてしまいました。
要するに、掃除の基本たる掃除機を好きになれば、きっと掃除も好きになるだろうという論法なのです。
話を盛ったことに対する言い訳では、ゆめゆめありません。

どういった経緯で、私が掃除改め掃除機を好きになる方法をどうやって発見したのかについて説明したいと思います。
何も掃除機が好きになる方法を発見しようと思って、発見したわけでありません。

丁寧な暮らしに挫折したことによってもたらされた副産物だったのです。
平たく言えば、失敗は成功のもと、といったところです。
 ピカピカの新米主婦だったころの私。
丁寧な暮らしにとてつもなく憧れていました。

丁寧な暮らしと言えば、やっぱり箒でしょう。
そんな安易な仮説の元、私的丁寧な暮らしが始まりました。

しかし、2年くらいが過ぎたある日のこと。
実家で掃除機を使いました。
ずっと箒を使っていたので、久方ぶりの掃除機でした。

そして、はっきりと気が付いてしまったのです。
箒って、メンドクサイ。

箒で掃除をすると言うと、掃くという動作にばかりスポットライトが当たっているような気がします。
でも実際にやってみると、箒で掃くのと同じくらい、ちりとりでごみを集めるという作業にも労力を要します。
加えて、集めたごみをこまめに捨てる必要もあります。

したがって、箒による掃除のプロセスを分解してみると、掃いて、集めて、捨てる、というサイクルを何度か繰り返していることになります。
一方の掃除機と言えば、掛ける、以上。

我が家はごくごく普通の1LDKのアパートで、まったくもって広い部屋というわけではありません。
それでも、心のどこかでやっぱり、掃除のことを負担に思っていたのかもしれません。
ずっと箒が当たり前だったから、なかなか気が付くことができませんでした。

けれども、そんなネガティブな気持ちよりも何よりも、圧倒的に勝ってしまった感情がありました。
すっかりと目覚めてしまったのです。
掃除機って、スバラシイ。

あの日、あの瞬間の感動を忘れることはできません。
文明の利器という言葉を、これほどまでに実感したことは、未だかつてあったでしょうか。
掃除機を発明してくださった方、そして今日までの発展を支えてくださった方々へ、思わず感謝せずにはいられませんでした。

そして、長らくお世話になった箒さんは玄関やベランダへと活躍の場を移してもらうことにしました。
こうして今では掃除機を愛用しています。
それからかれこれ4年ほどが経ったでしょうか。

それでも大袈裟ではなく、今でも使うたびに感動してしまいます。
掃除機を掛けながらも、掃除機さんありがとうっていう気持ちで胸がいっぱいになるのです。

箒を使っていたころは、やっとの思いで重い腰を上げて取り掛かっていた記憶があります。
というか、正直に言うと掃除をしないという日も結構ありました。

それが今では、昔のことが嘘のように自然と掃除機に手が伸びるのです。
365日きっかりとまで言わないけれど、ほぼほぼ毎日掃除機を掛けています。

もちろん結婚する前も掃除機を使ったことはあるけれど、別にこれといった特別な感情はありませんでした。
それでも今は、かけがえのない、大切な存在のように思えるのです。

こうして私は、極めてポジティブな気持ちで、掃除機を手に取ることができるようになりました。
それはつまり、何の負担感もなく、すっと掃除のスイッチが入るようになったということでもあると思っています。
掃除機の勢いそのままに、その他の掃除にも取り掛かれてしまうからです。

実はこれって、脳科学だとか、心理学だとかの見地からも理にかなっているらしいのです。
「やる気が出ない」で検索すると、やる気が出なくてもとりあえずやってみることでやる気が出るという、学術的根拠に基づいたと思われる記事が結構たくさん出てきます。

でも、冷静になって考えてみると、ちょっと違和感があるというか。
だってそもそも、とりあえずやってみるというやる気すら出なくて困っているのだから。

だからこそ、掃除機が大好きになったことは自分にとって大きな収穫だったのです。
とりあえずやってみるのハードルを大幅に下げることに成功したと思うからです。
おかげさまで、例えば水回りのお掃除なんかもとてもスムーズにできるようになりました。

このように振り返ってみると、やっぱりすべての原点は箒だったように思います。
箒を使っていた時代があったからこそ、今では掃除機が大好きになって、その結果、掃除もそんなに嫌いではなくなったという経緯があるからです。

ここまで書いてみて、自分でもなんだかとってもくだらないやり方だとは思います。
それでももしやってみようと思ってくれる人がいるなら、私のように2年間箒で頑張れとは言いません。

はたまた、箒のお掃除もやってみたら楽しいかも、とか自分に合ってるかもなんて思う人も結構いるんじゃないかと思います。
もしかしたら丁寧な暮らしなんかに向いている証拠なのかもしれません。

お掃除はやっぱり好きなれとは思わないけれど、嫌だなとか面倒くさいとか思いながらやるのってすごくしんどいことだと思います。
お部屋もピカピカにしましょうなんて思わないけれど、それでも汚いと精神衛生上もあまり良い影響がありません。

だからこそ、まあまあ綺麗かなくらいの状態を保てるような、負担感のないお掃除を自分なりに身に付けられるいいんじゃないかなと思っています。
家事も仕事もストレスフリーでできるように、今後とも研究を重ねていく所存です。

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丁寧な暮らしというパワーワード。これほどまでに人を惹き付けるのはなぜでしょう。かくいう私もそんな言葉に憧れていた一人です。そして箒によるお掃除を続けた新米主婦の行く末とは。4コマとエッセイで綴っています。
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