
丁寧な暮らしというパワーワード。
これほどまでに人を惹き付ける力を持っているのは、何ゆえ。
かくいう私も、そんな言葉に魅了されてやまない一人です。
とはいえ、どうやって体現すればいいのでしょう。
漠然としたイメージはあっても、明確な定義はどこにも見つかりませんでした。
とにもかくにも、まずはやってみよう。
こんな調子で、私的丁寧な暮らしは始まりました。
それっぽいことには、いろいろと手を出してみました。
手を出しすぎて、そのほとんどを忘れてしまったくらいです。
そんな中でも、箒と雑巾のお掃除は、私的丁寧な暮らしの象徴みたいなものでした。
箒を掃いていると、気持ちが凛とする。
雑巾がけをしていると、心も磨かれる。
丁寧な暮らしと聞くと、こんな表現をよく耳にします。
これまた嘘ではなく、私もそんな感覚を味わうことができたのです。
そんなスバラシイ、箒と雑巾のお掃除。
これはもう、今でもせっせと続けていることでしょう。
と思いきや、ご期待通り、そんなにうまくはいきませんでした。
箒って掃くだけなら楽だけど、いちいち腰をかがめてちりとり使うの、ちょっと億劫だなあ。
雑巾って手洗いだから特に冬場の水仕事は辛いし、生乾きだと菌が繁殖してしまうから、結構面倒なんだよね。
そんな漠然とした思いを抱えつつも、なんやかんやで2年以上は続けていたように思います。
だけど、ある日ふと思ったのです。
なんだか最近、足の裏がざらつくなあ、と。
最近ろくに掃除をしていないという、目を背けてきた現実を突き付けられました。
そして、気が付きました。
私、掃除が重荷になっているのかもしれない、と。
今日は天気が良いとか、気持ちに余裕があるときは、自然と箒と雑巾に手が伸びるのです。
でも、人生そんな日ばかりではありません。
どうしても気が向かなくて、やっとの思いで重い腰を上げたり、もはや腰を上げることすら放棄してしまう日もありました。
掃除って、食事とは違って生命維持活動に直接関わるというわけではありません。
だからこそ、今日は掃除しなくていっかって思ってしまうきらいがあるのかもしれません。
たしかに毎日掃除をしないといけないなんていう考えに縛られる必要なんてどこにもありません。
毎日毎日やらなくたってどうとでもなります。
それでも、やらない日が毎日になってしまうと、それはやっぱり生活をしていく上で支障が出てしまいます。
私の場合、そうした日々が積み重なった結果、気が付けば足の裏がざらつく暮らしを送っていたのです。
丁寧な暮らしをしようと思えば思うほど、理想と現実がかけ離れていきました。
なんと皮肉なことでしょう。
そして、決めました。
箒と雑巾を手放すことを。
今は掃除機と床ワイパーを使っています。
掃除をしようと思ったら、さっと用具を手に取って、ぱっと終わらせることができるようになりました。
おかげさまで、足の裏がざらつくことも、掃除を重荷に思うこともなくなりました。
衛生的にも、精神衛生上も、これでよかったのだと思います。
こうして、私的丁寧な暮らしは終わりを迎えました。
とはいえもちろん、丁寧な暮らしと言うと、箒と雑巾を使わなければいけないという決まりがあるわけではありません。
絶対的な答えなんてなくて、あくまでも自分自身の心が決めてよいことなのだと思っています。
いつかまた、私は丁寧な暮らしをしています、って胸を張って言える日が来るかもしれないし、来ないかもしれません。
それよりも今は、足の裏がざらつかない暮らしを続けていけるように励んでいく所存です。